2021年1月25日(月)
【コラム】〈記憶の記録27〉旅とゴルフと。そして...... プエルトリコ 真冬のニューヨークから常夏のカリブの島へ。
【コラム】〈記憶の記録27〉旅とゴルフと。そして......
プエルトリコ
真冬のニューヨークから
常夏のカリブの島へ。
プエルトリコ
真冬のニューヨークから
常夏のカリブの島へ。

1981年1月の真冬のニューヨーク。氷点下が当たり前のマンハッタンで、高層ビルの底を対流する白い蒸気をくぐるようにして、僕とカメラマンは、オーバーコートの襟を立て足早に店から店へと渡り歩いていた。
ニューヨーク・トラッドという言葉があった。ブルックスブラザースやJ.プレスなどのウエアを取材してまわるのだ。
フットジョイ・シューズの店では、店員がさぼって開店が遅れ、2時間も体を震わせながら、待っていたこともあった。
ゴルフクラブの店には、トニー・ペナやベン・ホーガン、ピン、マグレガーなど、垂涎の品々が揃っている。取材しながら、パーシモンヘッドのヒンヤリ感を愉しんでいた。
カラーボールが出始めた頃である。雪に閉ざされたゴルフ場で、雪中ゴルフを楽しむ人たちがいるという。郊外のコースに出かけてみると、雪の上でボールを打つ人、スノーサ―フィンを楽しむ人がいて、クラブハウスの中では、トランプやチェスの集団がいる。
「家にいたくないんだな、恐妻家ばかりなんだ」とは、あるメンバー。
ニューヨークから、常夏のカリブ海、プエルトリコに渡った。カリブ海は、憧れだった。
『男も女も、美しく優しい』とは、コロンブスが西インド諸島の印象を、スペイン国王に送った書簡の中の言葉である。
ラテン音楽が、流行った時代でもあった。ジャマイカのレゲエが大ブレイクして、サルサも人気があった。カリブでは、男も女も『美しく優しく、愉快』なのだった。
プエルトリコには、ロックフェラーが造った巨大リゾート「ドラドビーチ」があった。そしてそこに、コース設計の巨匠ロバート・トレント・ジョーンズの頭脳を借りて造られたゴルフ場がある。

夜になると、カジノが賑わう。スロットマシン程度だが、僕も初めてカジノの空気を吸ってみた。
そのドラドビーチで、伝説のプロゴルファー、チチ・ロドリゲスに会った。
「剣の舞」と言われ、バーディを獲ると、パターを日本刀のようにさばいて、トレードマークのパナマ帽をホールの上にフワッと落とす。「ボールが逃げないように」ということらしい。成績よりもむしろ、パフォーマンスで知られた人である。
このとき、チチはすでに45歳。ドラドの敷地の中に家を構え、この国の貧しい子供たちのために、チャリティトーナメントを積極的に開いていた。
「チチだ!」「いつ帰ったんだろうッ」
騒々しくゴルフカートが近づいてくる。ラジオから流れる『ラ・マラゲーニア』を口ずさみながら現れたパナマ帽の男は、「ヨクイラッシャイマシタ」と、日本語で挨拶した。
カートは、ロールスロイスのパーツで組み立てた特注である。ラジオも、ステレオも、バーもある。

シェパードたち、シーズンオフに帰ったご主人様にじゃれているが、グリーンが近づくと、後ろのカートにおとなしく座り込んでいる。ゴルフのマナーを知っているのだ。
「チチのドラドでの暮らし、ってどんなですか?」と僕が聞く。
「週に4日ゴルフをして、残りの3日は、バードウォッチングと庭いじり、かな」
「一番気を遣うアイテムは、パナマ帽?」
「いや、靴とズボンだよ。軽快な気分で過ごすために、ね」
チチの後姿は、とても軽やかだった。まるでサルサのステップのようだ。
コースの外で、ロストボールを売っている子供たちがいた。夕暮れや明け方にコースの中でボールを拾い集めて、安く売りさばいている。

同世代の、陽気なメキシカン、トレビノも5歳から農場で働いている。
14歳で学校をやめ、キャディになっている。チチ同様、茶目っ気があって、おもちゃの蛇をニクラスに放り投げて驚かせたエピソードを持つ。
ずっと後の世代だが、スペインの貴公子バレステロス(2011年に54歳で没)も貧しい農家の子であった。14歳で学校をやめキャディになった。兄からもらった錆びた3番アイアンで海岸で石ころを打っていた。
彼らのスウィングは、独創的だった。たたずまいにも、それとわかる個性があった。
日本の青木功も彼らに似ている。
頂上に立つニクラスという超エリートに向かって、貧しさから抜け出すためにしのぎを削っていた。
ゴルフ場を舞台に、僕たちを楽しませてくれた名優たち。彼らに、強く憧れる。
*写真協力=ゴルフダイジェスト社
中村 信隆
エッセイスト 1947年生まれ。ゴルフダイジェスト社元主幹。80年「Choice」創刊編集長。のち「週刊ゴルフダイジェスト」編集長を23年半務める。
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