学芸員室の雑記帳

関東大震災の遭難談(本社社屋の被害について)

9月が年度末のTDBでは23年度も残り1日、慌ただしく時間が過ぎていきます。9月1日の関東大震災100年に始まり、関連イベントの開催、『Muse』43号の刊行など、怒涛の1ヶ月でした。関東大震災関連の展示やイベントに足を運び、そこかしこで震災の描写を目にすることが増え、展示開催後に知ることも多く、展示は始まりに過ぎないことを痛感します。まだ展示期間中ですので、随時、補足や追加の情報を発信してまいりたいと思います。

以下は、『努力』という震災の3ヶ月後に発行した雑誌に掲載された社員による「遭難談」の一部です。震災直後のまだ記憶の新しいうちに書かれており、生々しい描写から当時の雰囲気が伝わってきます。

「自然の逞うする暴力の前には何ものをも抗することができない。桜橋のほとりに巨人のようにそそり立つあの建物(※帝国興信所本社社屋のこと)も須臾にゆり揺かされて梁が落ちる、負傷者が出る、死者が出る、血を浴びた人が渦巻く土烟の名から恐ろしい形相して飛出す。悲鳴叫号、更に一方には火の手が揚がる、九月一日の帝都はこの世ながらの地獄であった。私は私どもの城郭と頼む桜橋の事務所(※同じく本社社屋)が余震のたびごとに恐ろしくゆるぐさまを見て、その都度危険を叫ばずにはいられなかった。」

この遭難談を書いた社員は、被災した本社社屋建築の際の工事監督でした。

「桜橋際に聳え立つあの大きな建物が、全部とは行かないまでも、ある部分崩潰し、(火災は別として)二階三階のハリが墜ちたということは、過ぐる大正七年建築当時工事監督の衝に当った私としては、まことに心苦しく、また済まないことだと感じている。しかしながら当時全然耐震耐火ということを度外に置いたのではない。のみならず地震については専門家の意見なども参考としてかなり注意を払ったものである。というのは従来の記録に徴すれば、わが国にはまだ震幅八寸以上の地震はないのである。そこで耐震的建築をするにしても、その程度を標準としたらよかろうというのが当時専門家の意見であった。そしてせっかくあれだけの工事であるから鉄筋コンクリートにしてほしいというのがこちらの注文でもあり、また工事請負者たる清水組(現:清水建設)の希望でもあった。しかし当時は鉄成金万能の時代でもあるし、そううまく双方の希望を容れるわけにもいき兼ねたので、やむなく木骨としたのであるが、あんなにもろく地震にやられてみると、もしあれが鉄筋コンクリートであったら――という愚痴の出るのももっともしたことであるが、しかしそれは返らぬことである。」

「優に一尺五寸もゆれたというのである。要するに何も天災だとあきらむるよりほかはないのである。」

昨日参加した清水建設株式会社技術研究所主催の関東大震災100年シンポジウムでは、内藤多仲が建物被害の調査の結果、鉄筋コンクリートの耐震における優良さと、木造と瓦の脆弱さを強く指摘していたことが印象的でした。清水組が震災の一年後に出した建物被害調査報告のデジタルアーカイブは圧巻で、清水組が手がけ被災した建物の高精細の写真や破損状況を記した図面などの貴重な情報をタッチパネルで体験してきました。残念ながら調査時にはすでに形を残していなかった(さら地にするため爆破された)帝国興信所の写真や図面はありませんでしたが、全壊した建物として地図の中に記録されていたことが新たな発見です。

まだまだ関東大震災関連の情報は更新されていきそうです。補足しつつ、展示を強化してまいりますので、ぜひお楽しみに。